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2005年 09月 10日
「あの米国を想いこの属国を創る」にはじまり、「官から米へ」とか「官から銀へ」とか「痛みに耐えよく死んだ!」とか「日本売却の流れは、決して止めない」とか色々とあちこちでパロられているタームの数々ですが、今回はもう少し全体について。今回の選挙に限った話ではなく、広告というものについての、ここ六十年くらいの流れを見たい。一部酔っ払いの与太の域を出ていないところもありますが、曖昧な部分を残したまま敢えて書きます。いづれきちんと整理したいです。
最初はチョムスキーのメディア・コントロール。 これに述べられた事柄が、私が少しかじった広告理論と妙に深く重なることにぞっとした。 新しい口紅や新製品のキャラメルを売るためであれば、受け手も送り手もある程度「宣伝を全部そのまま信じるのは馬鹿」という合意ができている。しかし同じことを、それ以上に周到に、行政府が税金を使って行うのは悪夢としかいいようがない。 そしてアドルフヒットラー「我が闘争」 以下、反戦老年委員会さんより転載。 宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。(中略)宣伝の学術的な余計なものが少なければ少ないほど、そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。しかしこれが、宣伝の正しいか誤りであるかの最良の証左であり、若干の学者や美学青年を満足させたどうかではない。 宣伝の技術はまさしく、それが大衆の感情的観念界をつかんで、心理的に正しい形式で大衆の注意をひき、さらにその心の中に入り込むことにある。これを、われわれの知ったかぶりが理解できないというのは、ただかれらの愚鈍さとうぬぼれの証拠である。 宣伝になにか学術的教授の多様性を与えようとすることは、誤りである。大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、これをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人まで思いうかべることができるように継続的に行わなければならない。人々がこの原則を犠牲にして、あれもこれもとりいれようとするやいなや、効果は散漫になる。 以上転載 さあ、「メディアコントロール」をお読みになった方なら背筋が寒くなったこと受けあいだ。私は譬喩でなく胸の奥が痛くなった。気持ちが悪い。怖い。それくらい似ている。これは米国のことなのかナチスドイツのことなのか、私はもうわからない。 以上を踏まえた上で、こちらの方が紹介されていた、この書類(PDF)をもう一度ご覧戴きたい。 これは郵政民営化をごり押しするために、大臣に頼まれて、日本の会社がマーケティングリサーチした上での書類なわけだが。 あまりに類似点が多いことに、嫌でも気づかれることだろう。 「広告理論」自体ほとんど輸入品そのままであろうということは、ほぼ判っていたと思う。しかしこれを発明したのはそもそもヒットラー政権だということなのだろうか。初学者と名乗るのもおごがましい程度しか広告理論を学んでいない当方は、実はちゃんと理解していない。ただ、「アイドマの法則」などとなんとなく相通ずるものを感じて嫌な気分になっているだけだ。しかしマーケティングリサーチと「我が闘争」の主張が重なるのはいったい何故だ? それでも。 CIAにヒットラー政権から多数の人間が入り、その後マスコミから見えない形でラテンアメリカ諸国で彼らが暴虐をほしいままにしたことは知っている。そのときこの理論も一緒に入ったのだろうか。それが「広告理論」の元なのだろうか。 以上は推測の域を出ない。酔っ払いの与太とたいして変わらない気もする。だが今日のTVや全国紙の気の狂った様子を見ると、否定する材料が見つからないうちは私はこうした疑いを持ち続けることになるだろう。 何しろ、行政に反対する知識人がマスメディアから追放されて久しい。マスメディアだけ見ている人々は、反対派の学者やジャーナリストらが何を言っているか、そもそも知らないのだ。そうして、「反対反対言っているだけでなにをどうすべきかを言わない」という、完全に誤ったイメージだけが定着する。それが今度は「町の声」「読者の声」というような形で再びマスメディアによって示され、そのイメージが強化される。 ぼんやりと「それはおかしいのではないか」と感じていた人々も、自己の考えを理論的に補強し実例を挙げて整理する言葉に触れる機会が持たれないために、自分で言語化するに至らずに流されてゆく。遺伝子組み換え技術についても散々為されてきたことだ(これについては大手広告会社二社が共同で莫大な金額をかけて一大キャンペーンを行っている)。 口紅やキャラメルを売るためにゲッペルズの理論を利用することは構わない。しかし国家とメディアにそんなことをされては、単純にナチスドイツや大日本帝国のより巧妙な形での再来としか言えないではないか。 フランツカフカ、安部公房、ミヒャルエンデそして偶に埴生雄高といった作家の作品を枕に私は十代後半から二十代半ばまでを過ごしたが、今日ほどあれらの作品群がリアルに感じられることはない。 →無断転載陳謝。
by sirokanippe
| 2005-09-10 23:01
| 反暴力
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