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2009年 01月 16日
「停戦に前向き」なる新聞報道。しかし「停戦」て何のことだろう。生活も誇りも人生もすべてひきつづきイスラエルに手渡して何をされても決して声を上げないならばとりあえづ今すぐ皆殺しにするのだけは勘弁してやるよ」という意味なんだろうな。
それ以外の解釈ができない。そのままかぎ括弧もつけずに「停戦」と書く日本の新聞社はオウムよりも低脳で犬よりも恥知らずだ。 以下転送 1月6日、ジャバリヤの国連学校がミサイルの直撃を受け、40人近くの人が殺された時のことを書いた記事です。すでに10日前のことになりますが、ここに書かれたことは、今もまったく変わっていません(事態はさらに深刻化しています)。ガザでは日々、こうした光景が積み重ねられていっています。 終わることのない葬列、埋葬する余地もない墓地エヴァ・バートレット エレクトロニック・インティファーダ/Live from Palestine 2009年1月8日 昨日の朝、パレスチナ赤新月社の救急車同伴のシフトを終えてから、私たちは国連が運営するジャバリヤのアル・ファフーラ学校に行った。前の日(6日)、家を失って避難していた少なくとも40人の人がイスラエルのミサイルの直撃を受けて殺された場所だ。私たちが着いた時は礼拝の時間に当たっていて、学校の前の道路で祈りが捧げられていた。屋外で祈りが捧げられているのは、パレスチナとエジプトで、これまでも何度も目にしてきている。でも、今は、アル・シファ病院の前で、ジャバリヤのあちこちの路上で、大勢の人が祈りを捧げているのを見るたびに、破壊された多くのモスクのこと、失われた多くの命と避難所のことを考えずにはいられない。昨日、アル・ファフーラ学校爆撃のニュースを聞いた時も、私の頭にまず浮かんだのは、またひとつ安全な(はずの)避難所が失われたということだった。 いたるところに悲しみが満ちている。悲しみと嘆きと、いきどおりが。ひとりが強い口調で「いったい、私たちはどこで過ごしたらいいんだ」と言う。「どれだけ死んだら充分だというんだ? どれだけたくさんの人が死んだら?」 同じ問いが、12月27日以来、繰り返し私の頭の中に響いている。 ファフーラ通りを隔てて学校の反対側、15メートルほど行った道沿いに巨大な穴が開いている。ディーブ一家の家があったところだ。これから焼こうと丸められて並べられたいくつもの丸いパンが、ミサイルの直撃を受けた時に一家が何をしていたのかを物語っている。生き残った家族のひとりが私たちに話をしてくれた。アマル・ディーブは30代の母親で、彼女とほかに9人が死んだこと。その中には2人の男の子と3人の女の子がいたこと。ほかに4人が重傷を負ったこと。その内のひとりは両脚が吹き飛ばされていたこと。 家に近づいていくと、まだなまなましい、強い血の臭いがした。部屋の残骸のいたるところに飛び散った血、いくつもの血だまり。あとでジャバリヤのカマール・アドワーン病院に行き、19歳のアフラーム・ディーブを見舞ったが、彼女は、意識はあるものの、笑みを浮かべることはもとより、応答もいっさいしなかった。付き添っていた女性が説明してくれたところでは、砲弾の破片がアフラームの全身を切り刻み、中には胃に達しているものまであるという。アフラームは家族の10人が死んだのもまだ知らないということだった。 ファフーラ学校の前に戻ると、葬儀の参列者が集まり、死んだ人と死んだ人の体の一部を墓地に、もうこれ以上埋めるところもないほどに込み合った「休息の場所」に運んでいく準備をしていた。葬列には、あらゆる色の旗があった。どの派が主導権を握っているのでもない。集団的懲罰のもとの集団的な悲しみ。同じひとつの、追悼者たちの悲しみ。 狭い通りを進んでいくうちに葬列に加わる人の数はどんどん増えていった。一行はいくつもの集団に別れ、それぞれに別の道を通って墓地に到着した。墓地の入口付近には、以前に作られた墓であることを示す、装飾を施されたセメント板が並んでいる。まだセメントとスペースがある時に作られたものだ。一方、つい最近埋葬された者の墓はただの土盛りで、ごく浅いところに埋められて土がかぶせてあるだけ。もちろん、これでいいと思っている者などいはしない。墓であることを示すセメントブロックもところどころにあるけれど、葉っぱやツタが置かれてあるだけのものが多く、中には、土がほんの少し盛り上がっているだけで、ほとんど墓と見えないものもある。あまりにも詰め込まれすぎていて、どこが墓なのか判断するのさえ難しい。充分な敬意を払うために充分なスペースをとって配置するなど、とうてい不可能な状態なのだ。 「気をつけて、そこを踏まないで」と友人のマフムードが言い、それと気づきようもないほどに小さな子供の墓を指差した。 このおびただしい死の非道さに、私は改めて頭を殴りつけられたような思いに包まれた。殺戮と心理攻撃が始まって12日が過ぎ、私は、バラバラになった死体を見ても、以前ほどのショックは受けないようになっていた。少しずつ無感覚になっていっていた。こういう事態に繰り返し繰り返し向き合わされたほかの人や医師も同じような感覚になっているのかもしれない。今も続けられている虐殺は依然として心底恐ろしいし、瓦礫の下から引きずり出される子供の写真には、ただただ声を失いつづけている。これからも、そんな状態が続くだろう。それでも、死体や手足を失った人やめちゃくちゃになった生活が当たり前のようにあるという現実に、私は順応しはじめていたのだった。 土だけの間に合わせのお墓。急いで埋葬するために、手で地面を掘る人。必要なだけの長さがあるもの──ただの板切れや波形のブリキ板、廃材を組んだもの、ストレッチャーなど──に載せた遺体を運んでくる人。頭上には無人哨戒機が行き交い、100メートルかそこらのところから戦車砲の砲撃音が響いてくる。こんなことはもうたくさんだ。あまりにも、あまりにもひどすぎる。私は泣いた。死んだ人たちみんなのことを思って。心に深い傷を負っているすべての人のことを思って。ガザの人たちはみな、自分たちの血がおびただしく流され、それがこれからも続いていくということを、じっと噛みしめている。 少し前、私はハーティムにこう言われた。パレスチナの人たちのように強くあってほしい、パレスチナの人たちのために、と。そうあろうと、私は努力している。けれども、誰にも想像できないような殺戮の日々は続いている。分断されたガザのほかの場所のことは、私には手が届かない。私はサムニー一家の記事を読み、イスラエルの戦闘機の爆撃を受けた家の瓦礫の下から引っ張り出される女の子の赤ちゃんの写真を見る。イスラエルの爆撃で殺されたこうした人たちの写真を、フォトジャーナリストのムハンマドが撮りつづけてくれている。そして、今日、ハーティムがこう言った。こんなことはもうたくさんだ。ハーティムはとても強いのに。 パレスチナ赤新月社の医療スタッフのニダールが、ファフーラ学校が爆撃された時のことを話してくれた。叔父さんと叔母さんが学校のすぐそばに住んでいて、ニダール自身、爆撃があったその時に、学校にいた友達のところに行っていたのだった。「まさに現場にいたんです。友人たちと話をしている時に、ほんのすぐそこにミサイルが2発……僕とミサイルの間にいた人たちがシールドになってくれたようなものです。みんな、ズタズタに引き裂かれてしまいました。20人くらいの人たちが一瞬で」 ニダールはまだ20歳。私が出会ったパレスチナ人の多くがそうであるように、ニダールもまた、この若さですでに近しい人を失うという経験をしている。今回のとんでもない無差別攻撃よりも以前のこと、ニダールの父親と弟のひとりが、イスラエル軍のスナイパーの銃弾を受けて殺された(パレスチナでは「シャヒード(パレスチナに殉じて死んだ者)になった」というふうに言われる)。その時の出来事にニダールも否応なく巻き込まれたことを、彼の右手が物語っている。「3年前、イスラエル軍が僕たちの住んでいる地域(ジャバリヤ)に侵攻してきた時のことです。ひとりの兵士が僕たちに向かって音響弾を投げつけました。それを拾って遠くに放り投げようとしたんだけど、その前に手の中で爆発してしまって……」 音響弾は、西岸地区のビリーン村やニリーン村で行なわれているような、イスラエルの隔離壁に対する非暴力抗議デモの際によく使われており、多くの若者が、小さいころから、爆発する前に投げ返す術(すべ)を身につけるようになっている。しかし、5本の指の先端がすっぱりなくなってしまったニダールの右手は、ニダールがさほど幸運ではなかったことを示していた。それでも、ニダールは父親や弟よりは幸運だった。そして、ミサイルが撃ち込まれた国連の学校のすぐそばの家にいた2人の従兄弟、叔母の息子たちよりも。12歳と27歳の従兄弟は2人とも死んだ。 複数のミサイルが炸裂したのちのシーンを医療スタッフの立場から見たウサーマの言葉。「僕らが到着した時には、いたるところに死体が転がっていました。30体以上ありました。死んだ子供、死んだおじいさん……あちこちに飛び散った肉片。そして、血。大勢がパニック状態で逃げまどっていて、死んだ人や怪我人を運び出すのもたいへんでした。人間の死体の間に死んだ動物も転がっていました。僕は15人の遺体の搬送を手伝ったんですが、途中で3回、服を着替えなければなりませんでした。あそこにいた人はみな、国連の学校なら安全だと思っていました。そんな人たちを、イスラエル軍は冷酷無惨に殺したんです」 パレスチナ赤新月社のボランティアスタッフ、ムハンマド・Kは、ファフーラの避難所が爆撃された時には別の場所にいた。「ジャバリヤの国連のG学校で、家を失って避難してきていた人たちに話を聞いていました。どれだけの数の人がこの学校に避難しているか、ひとりひとりがどこから逃げてきたのか、逃げてきた正確な状況・理由、この学校でどのくらい安全だと感じているか、そういった聞き取り調査をしていたんです。僕たちがまだそこにいる時に、爆発音がして、もくもくと煙が立ち昇るのが見えて、いったいどこがやられたんだろうと思っていたんですが……それがファフーラの学校でした」 -------------------------------------------------------------------------------- エヴァ・バートレットはカナダ人の人道活動家、フリーランサー。2007年、西岸地区の各地に8カ月、カイロとラファ・クロッシングに4カ月滞在。2008年11月に第3次フリー・ガザ運動の船でガザに到着したのち、現地にとどまり、国際連帯運動(ISM)の一員として活動を続けている。現在、ISMメンバーは、救急車同伴活動を実施し、イスラエルのガザ空爆・地上侵攻の目撃証言を現地から発信している。 原文:"Too much to mourn in Gaza" Eva Bartlett writing from the occupied Gaza Strip, Live from Palestine, 8 January 2009 翻訳:山田和子
by sirokanippe
| 2009-01-16 23:03
| 反暴力
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